カテゴリ
1.最近出会った太宰さん ・逆行 ・新釈諸国噺 ・お伽草紙 ・黄村先生シリーズ 2.太宰文学考 ・『待つ』について 3.エッセイ・小説・その他 ・太宰です……。 4.駆け込み、謳え 5.太宰治で読書感想文を書こう! ・太宰治で読書感想文を!2012夏 6.この夏読みたい太宰治 ・この夏読みたい太宰治2012 ・『道化の華』事件の考察 7.撰ばれてあることの太宰と私 8.マイノスタルジア タグ
記事ランキング
検索
以前の記事
2012年 11月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 blogranking
外部リンク
blogparts
その他のジャンル
ブログジャンル
画像一覧
|
太宰治『朝』を再読。
若い頃、仲間たちと夜通し遊んでいると、朝の訪れが疎ましげに思えた時期がある。朝の訪れとは、すなわち日常への回帰を意味し、現実へと引き戻される時間なのだ。 「この夜を終わらせたくない!」そう何度も願ったとしても、無情にも夜は終わりを告げ、それぞれの日常へと還っていくのである。 ところが、歳を取るにつれて、朝の訪れが待ち遠しく感じるようになるから不思議である。確かに十代の頃にも、眠れずに、悶々と過ごした夜もある。しかし、いまは、それとはまた違うものなのだ。うまく言葉には言い表せないが、あの頃抱いていた不安や孤独といったものとは、また異質のものなのである。 恐らくそれは、若い頃には非日常的であった夜という存在が、いまでは日常的なものになったということなのかもしれない。つまり、歳を取り、いつの間にか、常に現実を生きるようになったということなのだろう。一言でいえば“大人になった”のだ。 作中、越えてはならない一線を、必死になって越えまいとする太宰さん。後半のスリリングなまでの筆致には、いつもながら舌を巻く。 若い頃なら、自身も認めているように、その一線を越えてしまったのであろう。そうして、いつものように、後からその罪悪感により、七転八倒したに違いない。しかし、そうはならなかった。つまり、太宰さんも“大人になった”のだ。 かつては、こういった作品に対して「ああ、面白いなあ」ぐらいの感想を抱かなかった私であるが、こうして感慨深く読めたということが、とても嬉しく思える。 “太宰文学は麻疹文学である”と、そう言われることが多いが、こういった楽しみ方があることを知らないだけなのだ。ただ、万人が知る必要は無いとも思う。もっと言えば、私だけの楽しみにしたいぐらいである。 また、作中には貴族の小便の仕方について書かれてあるが、よほど太宰さんはこのネタが気に入っていたようだ。『斜陽』『眉山』にも似たようなことが書かれてある。 これらが意味することについて考えるのも面白いかもしれない。多分、誰かがとっくに論じているとは思うが。 このような非日常的な小話をさりげなく挿入するのも、太宰文学の魅力のひとつであると私は思う。 たとえ“大人になった”としても、好奇心や遊び心を、忘れたくは無いものである。 #
by oobayouzou
| 2011-04-09 22:01
| 1.最近出会った太宰さん
太宰治『女神』を再読。
戦争により変わり果てた友人の姿を描いており、アイロニーとともに、ユーモアすら感じさせる作品。 特に最後の方の妻との会話には、『ヴィヨンの妻』の最後のセリフにも通じるものがある。ここから、たとえ気が狂おうとも“生きる”ことに対する太宰さんの意識の高さを感じさせるが、裏を返せば“死ぬ”ことに対しても同様であることにも着目せざるを得ない。 こういった重いテーマを後味悪くなく読者へ提供できるのは、やはり持ち前のサービス精神といったところであろうか。そして、それこそが太宰文学の魅力なのだとも思われる。 また、作中、“男性衰微時代”について友人が語っている個所があるが、実際に評論家の菊田義孝氏に対して、次のように話したことがある。 彼は戦後、三鷹の街角で、「今は男性衰微時代だが、僕はそのなかで、最後の男性だよ」と言ったことがある。れいのごとく、冗談めかして言われたのだが、そのなかには案外重い意味がこもっていたようである。男性と義、それはおそらく彼の心の中で、切っても切れない相関関係を有するものだったらしいからである。~菊田義孝『太宰治と罪の意識』より 果たしてこの時、自身の作品が頭にあったのかもしれないし、本気でそう考えていたのかもしれない。どこまでが道化で、どこまでが本気なのか、彼のサービス精神には奥深さを感じさせる。 そんな太宰さんであるからこそ、死後60年になるのにも関わらず、いまも尚その作品から、希望と勇気を与えられる読者が存在するのであろう。私も、そのうちの一人である。 #
by oobayouzou
| 2011-04-08 21:04
| 1.最近出会った太宰さん
太宰治『薄明』を再読。
たとえ薄氷を踏んで歩く思いをしようとも、たとえまた家が焼かれようとも、たった一つ残った家宝さえ壊れようとも、それでもなお、希望は見出される。それが薄明かりだとしても。というような、太宰さんにしては珍しく、いい意味での諦めの悪さ(?)を感じさせる。いや、元々太宰さんは諦めが悪いのかもしれない。たった一度を除いては。 大方の予想に反し、子煩悩な一面を覗かせる作品であるが、“小説はあくまでも虚構の世界”などと勘ぐってしまうのは、果たして野暮というものだろうか? 私たち読者は、いままで何度も騙され続けてきたわけであるから、疑われても仕方がないことであろう。でも、まあ、今回も、素直に騙されておくこととする。 戦火の中、それでも強く生きようと、一致団結する太宰さん一家。その姿が非常に印象的であり、勇気を与えられた気がした。 #
by oobayouzou
| 2011-04-07 22:03
| 1.最近出会った太宰さん
|
ファン申請 |
||