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太宰さんの『新釈諸国噺』を読んでいるうちに、井原西鶴の原文にも興味を持った。原文と太宰さんとの違い。西鶴の作品を、太宰さんは一体どんな風にアレンジしたのだろうか。
今回は前回に引き続き、「貧の意地」を取り上げ考察していきたい。 考察: 太宰さんの『貧の意地』との違いとして、気がついた点がある。金十両の入手方法である。原文には、内助自身が無心の手紙を書き、女房を使いに遣ったとあるが、太宰さんのではそこが違う。 太宰さんの方では女房が勝手に兄のもとへ赴き、金の無心をする。しかも、女房から“貧病の妙薬”を渡された内助は、素直に喜ぶことができずに「この金は使われぬぞ」と妙なことを口走るのである。 本文には次のような個所がある。 駄目な男というものは、幸福のお見舞いにへどもどして、てれてしまって、かえって奇妙な屁理屈を並べて怒ったりして、折角の幸福を追い払ったり何かするものである。 この心理、分からぬわけではない。降って湧いた幸運に対して、萎縮してしまうのだ。それを素直に喜ぶことが、何だか気恥かしく感じるのかもしれない。その反面、内心は嬉しさでわくわくして、酒を飲みたくなるのである。意地っ張りな男の、滑稽なまでの哀しき性とも言えよう。 こうした登場人物の心理をあからさまにすることにより、物語に深みが増すように思える。いわゆる“キャラ立ち”が為されるのである。 また、小判が十一枚になった時にも、そのキャラクター性が活かされる形となる。本文には次のようにある。少々長いが引用したい。 気の弱い男というものは、少しでも自分の得になることに於いては、極度に恐縮し汗を流してまごつくものだが、自分の損になる場合は、人が変ったように偉そうな理屈を並べ、いよいよ自分に損が来るように努力し、人の言は一切容れず、ただ、ひたすら屁理屈を並べてねばるものである。極度に凹むと、裏の方からふくれて来る。つまり、あの自尊心の倒錯である。 そう、意地とはまさに“自尊心の倒錯”なのかもしれない。プライドを守ろうとして、逆にプライドが傷つく羽目になりかねない。意固地になればなるほど、窮地に立たされることも少なくないのだ。 しかし、この物語は違う。その結末は、主人公ばかりか、他の誰もが損をしない。その場にいたすべての者が、ある意味において得をする。意地を張りとおしたからこそ、生まれた美談なのだ。 このように、太宰さんは得意の心理描写を用いて、登場人物の“キャラ立ち”を施すことにより、武士としてというよりも、一個人としての魅力にスポットを当てたのである。 そのことは最後の一文にも表わされている。西鶴の方では“武士のつきあいとは違うものである。”という言葉は、町民の視点で述べられている。登場人物の武士という側面が打ち出されているのだ。 ところが太宰さんの方では、内助ら仲間たちに対する、女房からの称賛の言葉として書かれてある。つまり、駄目な男たちの意外な魅力といったところであろう。滑稽なれど、美しい。まさに、太宰文学そのものではないか。 ところで、この作品。実は私自身が大いに共感できた作品なのである。最後の言葉には、我が身のことのように、こっそりとほくそ笑んでしまった。意地を通すのも悪くはない。 だが待てよ。ということは、私も駄目な男ということなのだろうか。まさか、いや、あえて否定はしない。
by oobayouzou
| 2012-06-05 23:23
| 2.太宰文学考
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