カテゴリ
1.最近出会った太宰さん ・逆行 ・新釈諸国噺 ・お伽草紙 ・黄村先生シリーズ 2.太宰文学考 ・『待つ』について 3.エッセイ・小説・その他 ・太宰です……。 4.駆け込み、謳え 5.太宰治で読書感想文を書こう! ・太宰治で読書感想文を!2012夏 6.この夏読みたい太宰治 ・この夏読みたい太宰治2012 ・『道化の華』事件の考察 7.撰ばれてあることの太宰と私 8.マイノスタルジア タグ
記事ランキング
検索
以前の記事
2012年 11月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 blogranking
外部リンク
blogparts
その他のジャンル
ブログジャンル
画像一覧
|
友人の有沢さんの記事に、大変興味を覚えた。それは“読者が私小説だと思い込むのは、文体によるものが大きい。”という点である。さらに有沢さんは下記のように例をあげている。
1.一人称の文体、あるいは三人称でも一人の登場人物にのみ焦点化されている場合~有沢翔治『太宰治と演じる、ということ』より ここで、特に4について憶いだしたことがあるので、それについて書いてみたいと思う。 私が太宰さんの作品で初めて読んだのは『人間失格』であった。その時の衝撃はいまでも忘れられない。「ここに、僕のことが、書かれてある」と、そう思った。実際には、私と大庭葉蔵との間には、かなりの相違点が存在している。それにも関らず私は、まるで自分自身の手記を読むかのように、作品へとのめり込んでいったのであった。 のちに、『人間失格』を読んで、自分のことが書かれてあるかのような錯覚に陥ったのは、私だけではないことを知る。実に多くの読者が同じような感想を抱いているのだ。 私は卒論で太宰治について取り上げたのだが、その時の面接官のひとりは心理学の教授であった。 彼は言った。「太宰文学とは若いころに誰もが通る麻疹のようなものだよ」と。 まだ若かった私は、怒りがこみ上げてくるのを覚えた。何といっても、自分がそれほどまでに感情移入した文学なのだ。一時期の感傷で終わるはずが無い。そう思った。 しかし、実際に社会に出てからは、太宰さんを読むことは、ほとんど無くなった。彼の言ったことは、概ね当たっていたのだ。 また、彼はこうも言った。 「しかし、そのようにいつかは遠ざけられる文学であるにも関わらず、またすぐに 新しい読者を獲得する。これは“集合的無意識”が作用しているのかもしれないね。これは、実に面白いことだね」 心理学に疎い私は、何のことだかさっぱりであった。だが、思い当たる節はある。 つまり「ここに自分のことが書かれてある」と思ったのは、私だけではないという事実である。そして、ここが有沢さんの書いた記事と重なる部分なのだ。 4はつまるところ誰でも思い当たるようなことを私小説の文体を用いて書く、という意味である。そしてこれはまた2の濃密な心理描写とも関わってきている。つまり誰もが考えるような心理描写にすればいいのだ。~有沢翔治『太宰治と演じる、ということ』より つまり、先の心理学教授の弁を借りるならば、太宰さんの文体は、“集合的無意識”にまで及ぶ作用をもたらしているかもしれない。だから、読者の多くは、そこに書かれていることが自分のことのように思えることがあり、すべてが事実である私小説として捉えられてしまう。今回私は、そんな風に考えてみた。 もちろん、断言はしない。何といっても、私は心理学を知らない。だから、いつもに増して、自信が無い。ただ、私は太宰文学が好きなだけなのである。 あの心理学教授の予言通り、私は太宰文学からしばらく遠ざかっていた。だが、いま再び夢中になっている。太宰文学は決して麻疹文学などではない。麻疹にするには勿体無いのだ。そのことを私が身を持って証明してやりたい。そう、強く、思っているのだ。 撰ばれてあることの恍惚と不安とふたつわれにあり~『葉』より
by oobayouzou
| 2012-04-03 23:23
| 3.エッセイ・小説・その他
|
ファン申請 |
||