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“少女は誰を待っていたのか?”
はじめ、この命題に対する私の“主観的解釈”を“救い”であるとした。しかし、これでは佐古氏のいう“「人格」との邂逅”が説明できない。寧ろ、その“誰か”との出会いこそが、少女にとっての“救い”であるとした方がしっくりくる。 前回述べたように、少女は恍惚と不安を感じながらも、“誰か”を待っている。その“誰か”に撰ばれてあることに対して希望を抱いている。 ここでの不安とは、もちろん「来ないかもしれない」というものではない。来ることを固く信じているからである。ここにおいて再度確認をしておきたいが、これは「来たらどうしよう」というような思いに近いもの。すなわち、出会ってからの不安であるのだ。 では、彼女にとっては“救い”である、その“誰か”との出会いに不安を感じるとは、一体どういうことなのであろうか。 ここでもう一度、この少女の行動を本作より引用してみる。 省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。~『待つ』より 私がここで着目したキーワードは、下記の3つである。 ①戦争がはじまったにも関わらず、自分だけ家でぼんやりしていることに対する罪悪感 ②誰かの役に立ちたいという使命感 ③いままでの生活に自信を無くしてしまったという喪失感 上記に挙げた3つの感情から、少女は省線の小さな駅に毎日“誰か”を迎えに行くという行動を取った、と私は考える。 では次回より、これら3つのキーワードについて考察してくこととしたい。 参考文献:佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』
by oobayouzou
| 2011-10-25 21:21
| ・『待つ』について
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