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1.最近出会った太宰さん ・逆行 ・新釈諸国噺 ・お伽草紙 ・黄村先生シリーズ 2.太宰文学考 ・『待つ』について 3.エッセイ・小説・その他 ・太宰です……。 4.駆け込み、謳え 5.太宰治で読書感想文を書こう! ・太宰治で読書感想文を!2012夏 6.この夏読みたい太宰治 ・この夏読みたい太宰治2012 ・『道化の華』事件の考察 7.撰ばれてあることの太宰と私 8.マイノスタルジア タグ
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太宰治の『人間失格』は私小説ではない。だが、その内容は自身の半生を綴った自伝的な要素が多分に感じられるのも確かである。だから、たとえ私小説だと思ったとしても、それは仕方がないのかもしれない。実は、私自身も初めて読んだ時は私小説かと思ったものだ。
しかし、作品『人間失格』のイメージで太宰さん自体を捉えられがちな風潮については、眉をひそめずにはいられない。あの作品の主人公は“太宰治”ではなく、あくまでも“大庭葉蔵”なのだから。 作中、第3の手記で“大庭葉蔵”は27歳と書かれてある。実際の太宰さんは精神病院へ入院し、前妻と心中未遂を図るなど、人生の底辺を彷徨っていた頃である。まさに人間失格ともいうべき、いま風にいえば“黒歴史”時代であった。もしも、そのまま死んでしまっていたなら、ここまで広く名を後世に残すことはできなかったであろう。 太宰さんにとって、自身の“黒歴史”は格好の小説の材料であったことはまず間違いない。それは処女作品集『晩年』から繰り返し行われてきたことでもある。しかし、だからといって、その“黒歴史”だけで本人を語るのは、あまりにも乱暴すぎるのではないだろうか。 実際には27歳以降の太宰さんは“市井の小説家”を目指し、安定した作品群を世に送り出している。いわゆる中期と呼ばれる時代である。この中期には太平洋戦争があったが、戦中にもっとも作品を書いたのは太宰さんであろうとも言われている。作家“太宰治”を語るのであれば、この中期こそ語られるべきであろう。 本作『人間失格』は、『斜陽』や『ヴィヨンの妻』などと同時期のもので、いわゆる後期の作品に当たる。後期というのはわずか3年ほどに過ぎない。そのショッキングな最期と相まって、読者にとっては印象深い時代でもある。 恐らく、ここで多くの読者は勘違いをしてしまうのであろう。中期は7年ほどあるのにも関らず、その時代をスッポリ飛ばしてしまうのだ。そうして“黒歴史”の集大成たる『人間失格』とその最期を直結してしまうのである。 結果、自殺や心の病ばかりが脚光を浴びる。そうして“大庭葉蔵”のイメージがそのまま“太宰治”と重ねてしまうのだ。つまり“人間失格”である。 もしかすると、それは太宰さん自身がワザとそう思えるよう仕掛けたものなのかもしれない。そうとは知らずに、次々と引っかかっているだけなのだろうか。それでもまさか、死後60年以上もそれが続くとは、思いもしなかっただろう。 #
by oobayouzou
| 2012-07-24 22:22
| 3.エッセイ・小説・その他
現在、私はTwitter上において、#dazaidesuというタグを用いている。一時期流行ったヒロシよろしく太宰さんの自虐ネタをツイートしているのだ。元々は、有沢氏が使用しているタグで、私も便乗させていただいている。今回は、その中からいくつか紹介していくこととしたい。
太宰です……。友人を訪ねたら、別の友人と出掛けるところでした。そんなときに訪ねた私が悪いのです。でもそのお陰で、檀君と知り合えたとです。 太宰です……。出会った頃の檀君に「君は……天才ですよ。沢山書いて欲しいな」とおだてられました。「書く」とだけ、答えたとです。 檀一雄氏との心温まる2つのエピソードは、私のお気に入りだ。特に、はじめの二人の出会いの場面など、太宰さんらしいというか、私が思い描く“太宰像”にぴったりとマッチしている。 向こうから、その男がやってきた。ハンチングを斜めに冠り、二重まわしの袖をマントのふうにそよがせて、「ヤ、先日は」~檀一雄『小説 太宰治』より ついでに、こちらも。 太宰です……。檀君に怒鳴られました。彼を借金の人質にしたまま、戻らなかったからです。私は言ってやったとです。「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」 これは例の“熱海事件”の際のセリフをネタとしている。敢えて逆切れ感を滲ませてみた。その方が、面白いかと思ったまで。 それでは今回は、この辺にて。 太宰です……太宰です……太宰です……。 #
by oobayouzou
| 2012-07-17 22:22
| ・太宰です……。
先日、Twitter上において気になるツイートを見かけた。それは学校の国語の教師は太宰さんの作品をほとんど読んでおらず、かの名作『走れメロス』の元となったネタなども知らない。友情や信実ではなく、そういったことこそ授業に取り入れるべきではないかと、確かそういった内容であった。
私は首を傾げた。なぜなら、国語の授業で『走れメロス』が取り上げられているのは、太宰さんの美しいばかりの文体がそこに繰り広げられているからではないかと思ったからである。 もちろん、友情だの信実だのといった話の内容も加味されているだろう。さすがに『人間失格』ではやりづらいかもしれない。だが、あくまでも国語の授業ということを鑑みれば、文体の美しさにこそ焦点を当てるべきである。道徳や倫理の時間ではないのだから。 それにも関らず、わざわざゴシップネタを曝すことなど、何の意味があるのだろうか。そういった類はネット上だけで十分であろう。 そのツイートを読んで私は俄然いきり立った。しかし、それと同時に、ある記憶が私の中に甦った。それは高校時代、国語の授業中のことである。 その国語教師は普段から授業を脱線していた。その日も、いつものように酒を飲んだ話などをしながら、それでも「本は読んだ方がいいぞ」などという、まともなことも言っていた。 それから彼は、こうも言った。「だが、太宰治だけは読むな」と。 私のアンテナは反応したのは言うまでもない。これは何かある、そう思った。その日の下校途中、書店に立ち寄り『人間失格』を買って帰った。それが、太宰文学との出会いであった。 いまにして思えば、あの時の彼はきっとこう言いたかったに違いないと、勝手に解釈している。すなわち「太宰治だけは、絶対読め」と。 ここで重要なのは、もし彼が形通りの教師であったなら、私は太宰治をその時に読むことはなかったであろうということだ。太宰文学の文体の美しさだとか友情や信実についての授業であったなら、それほど胸に響かなかったに違いない。現に国語の授業以外は、ほとんど眠っていたのだから。 教師への反抗心からあえて読んだということも考えられるであろうが、私の場合は特にそんな気持ちは持ち合わせてはいなかった。もちろん、従順な生徒だったわけではない。ただ、とにかく、教師というものに、学校というものに興味を持っていなかったのである。 また、そんな冷めた高校生であったからこそ、あの言葉をきっかけとできたのかもしれない。いずれにせよ、私にとっては必然のできごとであったようにさえ思えている。 このように思い返してみれば、私自身、何も太宰文学の文体に興味を持ったわけではない。ただ、“これは何かある”という、直感めいたものに従っただけのことなのだ。 ならば、元ネタだろうがゴシップネタだろうが、大いに授業へと取り入れるべきかもしれない。授業で取り扱うわけだから、Twitter上でのような偏った内容ではないであろう。そうすれば、かつての私のように、直感に従う若者が数多く出てくるのではないか。 もちろん、そんなことをせずとも、必然的な巡り合わせというものも存在するであろうが。 とにもかくにも、どうやら太宰文学とゴシップネタとは切っても切れない関係であるらしい。ならばいっそのこと、そのことについて授業で取り上げるのも、また一興なのではないだろうか。 #
by oobayouzou
| 2012-06-29 23:23
| 3.エッセイ・小説・その他
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